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2009年11月20日
独立行政法人海洋研究開発機構
カナダ漁業海洋省海洋科学研究所

北極海が炭酸カルシウムの殻を持つ海洋生物にとって
住みにくい海になっていることを初めて発見
〜海洋酸性化と海氷融解の二重の影響〜

1.概要

独立行政法人海洋研究開発機構(理事長 加藤康宏)地球環境変動領域北半球寒冷圏研究プログラム北極海総合研究チームとカナダ漁業海洋省海洋科学研究所は共同で太平洋側北極海における観測研究を行ってきた結果、炭酸カルシウムを殻に持つプランクトンなどの海洋生物にとって北極海カナダ海盆が世界で最も早く住みにくい海 (炭酸カルシウムに対して未飽和な海) になってしまったこと、そしてこれが人為起源二酸化炭素の増加に伴う海洋の酸性化に加えて近年の北極海での急激な海氷減少(融解)による影響で起きたことを、世界で初めて明らかにしました。

この成果は11月20日号の米国科学振興協会発行のScience誌に掲載されます。

タイトル Aragonite undersaturation in the Arctic Ocean: effects of ocean acidification and sea ice melt
著者名 川合美千代、F.A.McLaughlin、E.C.Carmack、西野茂人、島田浩二

2.背景

人為起源二酸化炭素の増加は地球温暖化や気候変動を引き起こす大きな要因であると考えられています。大気中に排出された二酸化炭素のおよそ3分の1は海洋に溶け込み、その結果として海水を酸性に近づけてしまうこと(海洋酸性化)が近年問題となっています。二酸化炭素が海洋に溶け込むと、水素イオン濃度が増加してpHが下がるため、中和反応によって海水中の炭酸イオン濃度が減少します。海水中の炭酸イオンは炭酸カルシウムの殻や骨を持つプランクトン・甲殻類・魚などの海洋生物に必要な物質なので、その濃度の低下はこれらの海洋生物を危険にさらす可能性があるのです。これまでの予測研究などから、大気中の二酸化炭素濃度が増加するにつれて、高緯度海域で海洋酸性化が顕著となり、2030年頃に南大洋で、 2100年には北太平洋でもアラゴナイト(注1)の殻をもつ生物にとって住みにくい環境になるのではないかと危惧されています。

北極海では20世紀末頃から海氷の減少が劇的に進行しています。本研究では、この急速に変わりつつある北極海において、現在の海水中に炭酸イオンが十分にある(炭酸カルシウムに対して過飽和状態にある)のか、それとも炭酸イオンが不足していて炭酸カルシウムが溶けやすい(未飽和な)状態にあるのかを調べました。飽和状態の指標としては、観測データから計算される飽和度を示す値 Ωが用いられます。Ωが1よりも大きな値の場合は、海水中の炭酸カルシウムは過飽和状態で炭酸カルシウムを殻に持つ生物にとって住みよい環境にあります。一方、Ωが1よりも小さな値の場合は、海水中の炭酸カルシウムは未飽和であり、炭酸カルシウムを殻に持つ生物が住みにくい環境であることを示しています。併せて、海氷融解水の指標となる海水中の塩分と酸素同位体比(注2)を調べることで、海氷融解の影響とΩの関係についても調査しました。

3.研究方法の概要

2008年に北極海カナダ海盆域でカナダ沿岸警備隊所属の砕氷船ルイ・サン・ローラン号を用いた日本・カナダ・アメリカなどの研究機関が共同で行った観測において、海水の全アルカリ度(注3)、溶存無機炭素濃度(注4)、水温、塩分などの値を調べました。そして、これらの値から、炭酸カルシウムのうちアラゴナイトの飽和度を示す値であるΩaragonite(以下、この値を単にΩと記す)を計算しました。また海水中の酸素同位体比から、海水に混入した海氷融解水の量を計算しました。これらの観測結果を、1997年に北極海カナダ海盆域で行われた観測結果と比較することで、北極海で海氷融解が劇的に進行する前後で、海氷融解水の量やΩがどのように変化したかを調べました。

4.結果と考察

今回の解析結果から、1997年から2008年の間に北極海カナダ海盆域の表層は淡水化が進行していること、この淡水化の要因が海氷の融解であることが明らかになりました(図1)。そして炭酸カルシウムの飽和度を示すΩは、1997年に比べ2008年の値が極めて低く、炭酸カルシウムが未飽和である海域が北極海カナダ海盆域中央部に広がっていることが分かりました。

通常の海洋酸性化の場合、大気中の二酸化炭素濃度の上昇に伴って海水中への二酸化炭素の取り込みが増えることで炭酸イオンが減少し、Ωの値も小さくなります。北極海の場合は海洋酸性化に加えて海氷の融解が進行していることも、Ωの値が小さくなる要因と考えられます。ひとつには、海氷融解により露出した水面(開放水面)が増えこれまで海氷に妨げられていた大気-海洋間の相互作用(ガス交換)が活発化することで海洋酸性化が進むことが挙げられます。さらに重要なことは、海氷の融解によって海水が希釈される効果があることです。海氷融解水は真水に近いので、海水や河川水と比べて全アルカリ度や溶存無機炭素濃度が低くなります。このため、海氷融解水が増えることで全アルカリ度が低下するとともに溶存無機炭素の一種である炭酸イオン濃度も減少し、Ωの値が小さくなるのです。北極海カナダ海盆でΩが1以下になる海域では全アルカリ度も低く、Ωの低下には海氷融解が強く影響していることが分かりました。

沿岸や縁辺海などで湧昇や河川水の影響が強く出る局所的な海域ではΩが1以下になった場所はこれまでにもありました。しかし、水深の深い海盆域でしかも広範囲にわたってΩが1以下であったことが確認されたのは北極海カナダ海盆域が初めてです。通常の海洋酸性化に加えて急激に進行する海氷融解の効果が重なることで、北極海カナダ海盆域が世界で最も早く炭酸カルシウム(アラゴナイト)に対して未飽和になったことが、今回の研究成果から明らかになりました。

5.今後の展望

2009年9月から10月にかけて、当機構は北極海カナダ海盆西部の海域で海洋地球研究船「みらい」による観測航海を実施しました。本航海に乗船していたカナダ漁業海洋省海洋科学研究所 川合美千代研究員(当機構 客員研究員)は、得られたデータから2009年の北極海カナダ海盆西部海域も表層でΩが1以下となる海域が広がっていることを示しました(図2)。先に示したような2008年に初めて明らかになった状況が北極海カナダ海盆西部海域にも広がっていることが確認されたのです。

予測モデルの結果などから、北極海は今世紀中頃までには夏に海氷が存在しない海域になることが示唆されています。今後、北極海の海氷減少は進行し、その影響は様々な形で現れると思われます。我々の研究チームでは、海氷が北極海からなくなるまでΩの減少は進むのではないかと考えています。Ωが減少し、炭酸カルシウムに対して未飽和になったときの生態系への影響はまだ完全には理解されていませんが、海洋生物に関する実験結果などからはΩの変化は海洋生物の多くの種に対して本質的な変化をもたらすことが示唆されています。北極海ではアラゴナイトの殻を持つミジンウキマイマイ(Limacina helicina、クリオネの唯一の餌)などの生物が存在し、このような生物の個体数や分布が、酸性化と海氷融解によってΩが1以下になった影響を受けてどうなるのか、そして食物連鎖を経て北極海の生態系にどのような影響が及ぶのかが危惧されます。また、これまでの研究から北極海カナダ海盆の表層水は10年程度で北極海から北大西洋に流れ出ることが知られています。北極海カナダ海盆域で起きたΩの減少の影響は北大西洋にも及ぶかもしれません。

我々は、現在進行形である北極海の変化を明らかにするために、今後も総合的な観測研究を継続し、その変化の影響を注意深く調べていく必要があります。これにより北極海の気候システムに関する理解が進むとともに、生態系を含めた北極域の環境変動に関する新たな知見が得られることが期待されます。

注1 アラゴナイト:

霰石。海洋生物の生成する炭酸カルシウムのうち、比較的溶けやすいタイプ。サンゴ骨格もアラゴナイトである。

注2 酸素同位体比:

水を構成する酸素分子の安定同位体比。酸素には3つの安定同位体が存在する(16O = 99.763%, 17O = 0.0375%, 18O = 0.1995%)。海水や海氷には、水蒸気や降水・河川水に比べて重い同位体 (18O)が多く含まれている。このため、淡水の起源が海氷であるのか、降水や河川水であるのかを識別することができる。

注3 全アルカリ度:

中和に必要とされる酸の電荷数。海水中では、主に重炭酸イオン(HCO3-)と炭酸イオン(CO32-)の電荷数の和で表わされる。

注4 溶存無機炭素:

水中の無機炭素の総称。海水中では、二酸化炭素(CO2)、遊離炭酸(H2CO3)、重炭酸イオン(HCO3-)、及び炭酸イオン(CO32-)で存在する。


図1 北極海カナダ海盆表層0〜20mの塩分・海氷融解水の割合・炭酸カルシウム(アラゴナイト)の飽和度を示す値Ω・全アルカリ度[単位:μmol/kg]の分布図。上が1997年、下が2008年の観測結果を示す。灰色線は1000,2000,3000mの等深線。塩分は減少、海氷融解水の割合は増加、全アルカリ度は減少し、Ωの値からアラゴナイトの飽和度が過飽和から未飽和に変化したことがわかる


図2 2009年海洋地球研究船「みらい」北極海航海で得られた塩分(左)と炭酸カルシウム(アラゴナイト)の飽和度を示すパラメーターΩ(右)の分布図。点は観測点、太線はΩが1の線を示す。北極海カナダ海盆西部海域においても塩分が低くなり、Ωの値が1以下(アラゴナイトの飽和度が未飽和)になっていることがわかる

お問い合わせ先:

(本研究について)
独立行政法人海洋研究開発機構
地球環境変動領域 北半球寒冷圏研究プログラム 北極海総合研究チーム
 チームリーダー 菊地 隆 電話:046-867-9486
 技術研究主任 西野 茂人 電話:046-867-9487
カナダ漁業海洋省海洋科学研究所
 研究員 川合 美千代 電話:+1- 250-363-6619
(報道担当)
独立行政法人海洋研究開発機構
 経営企画室 報道室長 中村 亘 電話:046-867-9193