2013年 8月 5日
独立行政法人海洋研究開発機構
アジレント・テクノロジー株式会社
フランス海洋研究所
1.概要
独立行政法人海洋研究開発機構(理事長 平 朝彦)高知コア研究所同位体地球化学研究グループの谷水雅治サブリーダーは、アジレント・テクノロジー株式会社、フランス海洋研究所(IFREMER)の協力のもと、234U-230Th年代測定法(*1)を用いたサンゴなどの海生炭酸カルシウムの年代決定に関する研究において、卓上型ICP質量分析装置を用いた極微量の236U(*2)の迅速かつ高精度な定量化法を構築しました。本手法は、従来のICP質量分析法(*3)の課題であったイオンビームの収束性を向上し、妨害分子イオン(Uの水素化物イオン等)を効果的に除去することで、他の質量分析法(*4)に比べて飛躍的に迅速かつ容易な236Uの高精度定量測定を実現しました。さらに、本手法を234U-230Th年代測定に応用することで、短時間で高精度な年代測定が可能になると期待されます。
本成果は、英国王立化学会の分光分析分野の専門誌Journal of Analytical Atomic Spectrometryに8月7日付(現地時間)で掲載される予定です。なお、電子版は7月16日付で掲載されました。
2.背景
地球温暖化現象は世界が直面する重要な課題であり、その原因としてはまず産業活動に伴う二酸化炭素の排出が考えられています。実際に、大気・海洋などの環境観測データと気候モデルシミュレーションの対比からは、二酸化炭素が地球温暖化に影響を与える可能性が示唆されています。
一方で、地球が持つ周期的な気候変動システムの一環として地球温暖化が発生しているという指摘も存在しており、地球の過去の温度変化の幅や速度を検証する研究に注目が集まっています。そして、サンゴなどの海洋堆積物中の海生炭酸カルシウムに含まれる酸素原子の同位体比(*5)は、試料が生成した当時の温度を記録していることから、質量分析法を用いて18O/16O同位体比を精密に測定することで過去の海水温を推測することができます。この結果はIPCC第4次評価報告書(*6)の「第6章 古気候」にもまとめられており、氷期と間氷期が繰り返し地球に訪れていることを示しています。
ここで、炭酸カルシウム試料が生成した年代の同定にも質量分析法が用いられます。具体的には、234U-230Th年代測定法が知られており、試料中に極微量に含まれる234Uの230Thへの壊変量をもとに、試料の年代を過去約50万年の範囲で測定することが可能です。これまでは、U及びThの同位体分析には表面電離質量分析法(*7)が利用されてきましたが、測定に時間を要するという課題が存在しました。これに対して、迅速分析可能な手法としてICP質量分析法が近年用いられています。しかしながら本手法においては、イオンビームの収束性の低さや、試料導入方法に由来する妨害分子イオンの影響による分解能の低下が課題として存在しています。
3.極微量236Uの迅速分析手法の確立
研究チームでは、表面電離質量分析法と比較した場合のICP質量分析法による同位体測定における上記問題点を、新しい分析手法により大幅に低減し、非常に簡便に236Uを定量する手法を確立しました。
海生炭酸カルシウム中にウランは1ppm程度含まれていますが、ウラン同位体のほとんどは235Uと238Uであり(それぞれの同位体存在度は0.720%と99.275%)、234Uの同位体存在度は約0.005%しかありません。また、化学分離操作の過程で一部が失われることで、その存在量を正しく決定できないため、通常は同位体希釈法(*8)と呼ばれる手法が使われています。これは、自然界に存在しない236Uを一定量試料に添加した上で化学分離を行い、分離後の234U/236U同位体比から234Uを定量する方法で、ごくわずかしか存在しない234Uに対してもその濃度を1%以上の高精度で定量測定することができます。
ここで、234Uの高精度定量測定を行う上で問題になるのは、試料中に存在する同位体である235Uと238Uの質量スペクトル上での影響です。特にICP質量分析法の場合は238U+のイオンビームの広がりが236U+の付近にまで影響を及ぼすとともに、分析の過程で235Uイオンに水素原子が結合した235UH+と236U+イオンの質量数はともに236であるため、従来の質量分析装置ではこれを分離することが不可能でした。
そこで、研究チームではこれらの目的元素と同じ質量を持つ妨害分子の影響を抑制するために、四重極電場を有したICP質量分析装置であるAgilent8800(アジレント・テクノロジー社製)を用いた新たな分析手法を確立しました(図1&図2)。この装置は市販のICP質量分析装置としては初めて四重極電場を直列に配置することでイオンの収束能力を高めたもので、238U+のイオンビームの236U+への影響をなくすことが可能です。また、両四重極電場の間にイオンと反応するガス分子を導入できるセルを配置しており、妨害分子イオンの発生を抑制できる機能も有しています(図3)。ウランの測定においては、U+イオンを酸素ガス(O2)と反応させ、UO+イオンとして検出することで、ウランの水素化物イオンの影響を著しく抑制することに成功しました。
酸素には16O、17O、18Oの3つの安定同位体が存在し、235U17O+が236U16O+と同じ質量数として干渉するため、従来のICP質量分析装置ではウランイオンをウラン酸化物イオンとして検出する手法は適用不可能でしたが(図4(a))、Agilent8800を用いた新たな分析手法では、反応セルの前に設置された四重極電場により235U+は予め排除され、235U17O+は反応セル内では生成しないため、目的の236U+イオンを正確に検出することが可能になりました(図4(b))。得られたウラン同位体の質量スペクトルは従来のものと比べて質量スペクトルの裾野がきれいであり、また質量数239に認められる238UH+と238U+の量比で推定されるように、ウランの水素化物イオンが著しく抑制されています(図5)。この分析法を236U/238U同位体比が10-7から10-9までの試料に適用した結果、この範囲では同位体比が正確に測定可能であることを確認しました(図6)。10-9の236U/238U同位体比まで検出可能ということは、10億個の238Uに対して1個の236Uが測定できることを意味しています。
従来の同位体希釈法では236U+に干渉する238U+ピークの裾野と235UH+の影響を低減するために、236Uを多めに添加する必要がありました。これに対し、本手法では236Uの添加量を最低限の量に一義的に決めることができ、試料導入ラインに残存する236U+の信号強度も抑えることができます。また、これらの妨害要因の補正が不要なため、従来の手法で必要であった235U+や238U+の測定が原理的には不要であり、簡便さと迅速さを兼ね備えた画期的な分析法と言えます。さらに、234U-230Th年代測定に必要な、海生炭酸カルシウム中の230Thの同位体希釈質量分析のために添加される229Thの水素化物の低減にもつながり、従来必要であった複雑な分析プロセスが簡略化されます。
4.今後の展開
本研究の測定手法を用いることにより、過去の氷期から間氷期への温暖化移行時の地球における、さまざまな緯度や海域における地域的な温度分布と変化速度を系統的に調査・評価できるなど、古気候変動のより詳細な解明に役立つことが期待されます。研究チームでは、本手法で用いた質量分析装置の高感度化・高精度化をさらに進め、さらに微少試料量での年代測定手法を確立していきます。
*1 234U-230Th年代測定法:サンゴなどの海生炭酸カルシウム中に含まれるごく微量の234U(半減期24.6万年)が230Th(半減期7.54万年)に放射壊変する性質を利用した年代測定法。ここで、壊変前の核種(親核種)の半減期が、壊変後の核種(子核種)と比較して圧倒的に長い場合には、両核種から発生する放射能の量が等しい永続平衡と呼ばれる状態になる。親核種である234Uの半減期は子核種である230Thよりも圧倒的に長いため、234Uから230Thへの放射壊変においても時間の経過とともに永続平衡状態に近づいていく。ここで、ある地質学的現象によって両核種を含むUとThの存在比に変化が発生すると、永続平衡状態が崩れ、一定の時間をかけて永続平衡に戻る。この過程においては、各核種からの放射線量の違いから年代を測定することができる。
*2 236U:一般的に天然には存在せず、主に軽水原子炉内での235Uと中性子との核反応で生成する人工核種。半減期は2,342万年。235Uと熱中性子との反応では、十数%の割合で核分裂せず、236Uに変化する。
*3 ICP質量分析法:誘導結合プラズマ(ICP)をイオン源に用いた質量分析法。約8,000度の高温のアルゴンプラズマ中にエアロゾル化した試料を導入してイオン化させるため、元素のイオン化エネルギーに依らず、高いイオン化効率が得られる。その一方で、得られたイオンの初期運動エネルギーが大きいため、イオンビームの収束性は表面電離質量分析法(*7)に劣り、アルゴンや大気中の窒素、酸素、水などに起因するさまざまな目的元素以外の妨害分子イオンが生成するため、質量スペクトルにノイズが発生しやすい。
*4 質量分析法:目的元素をさまざまなイオン源を用いてイオン化し、得られたイオンを電場中で加速して、磁場内や電場内を運動させることで、目的元素イオンの中から目的の同位体を質量数に応じて分け、検出する手法。得られた目的元素の各同位体イオンの検出数を質量数に対して並べたものを、質量スペクトルと呼ぶ。イオン源で生成したイオンが装置内を運動している間に残留ガスと衝突して失われないために、装置内部は高真空に保たれている。
*5 同位体比:同位体とは、ある元素について、中性子の数が異なる核種を指す。たとえば酸素(O)には16O、17O、18Oの3種類の(安定)同位体が存在する。すべての物質には一定の割合で同位体が存在し、同位体比を調べることにより、物質の生成過程を知ることができる。水素や酸素の同位体比は温度に依存した一定の関係があることから、サンゴや氷河などの試料を用いた古気候変動の解析に用いられている。
*6 IPCC第4次評価報告書:国連下部組織のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)によって2007年にまとめられた、地球温暖化に関する報告書。
*7 表面電離質量分析法:イオン源としてリボン状の金属フィラメントを利用した質量分析法。試料溶液をフィラメント表面に塗布し、真空中でリボン両端に電流を流し徐々に抵抗加熱することにより、塗布された目的元素をイオン化する。イオン化温度が低いため、第一イオン化エネルギーの大きな元素には不向きであるが、生成する正イオンは初期運動エネルギーをほとんど持たないため、非常にイオンビームが収束しているのが特徴で、目的元素以外の妨害分子イオンが少なく、きれいな質量スペクトルが得られる。
*8 同位体希釈法:目的元素の濃度定量のために、同じ元素でありながら、目的元素の同位体存在度と大きく異なった同位体存在度をもつ物質を既知量添加し、混合物の同位体比を測定する手法。添加した物質の濃度と同位体組成、目的元素の同位体組成から、目的元素の濃度を計算できる。この手法は分析試料からの完全な目的元素の回収を必要とせず、濃度は同位体比から計算されるため、非常に高精度・高確度の分析結果が得られる。
図1 Agilent8800の外観(Agilent社 Webサイトより転載)
図2 Agilent8800の質量分析装置部分の拡大図と各部位の説明(Agilent 社Webサイトより転載)
図3 Agilent8800の質量分析部(四重極電場Q1-イオン反応セル-四重極電場Q2)の拡大図
(Agilent 社Webサイト関連資料より転載)とその模式図
(a)従来のICP質量分析装置の場合
(b)Agilent8800の場合
図4236Uイオンを高精度に検出する仕組みの概要。(a)が従来のICP質量分析装置、(b)が今回の研究に用いたAgilent8800。Q1、Q2は四重極電場を示し、特定の質量のイオンのみを通過させる役割を果たす。従来のICP分析装置(図中(a))では反応ガスを使わない場合、質量数の同じ236U+イオンと235UH+イオンが区別されず一緒に検出されてしまう。また、酸素ガスと反応させた場合においては235UH+は除去できるが、多量に存在する235U17O+が236U16O+と区別できない。これに対し、Agilent8800(図中(b))では四重極電場をイオン反応セルの前後に直列に配置することにより、235U+は反応セル内に入らないため235U17O+は生成せず、また235UH+イオンは酸素ガスとの反応によって質量の異なる235U16O+イオンに変換されるため、目的の236U16O+イオンのみを高い精度で検出することができる。
図5 天然のU同位体存在度と、実際にAgilent8800で得られたウラン同位体の質量スペクトル、及び従来スペクトルの比較。本研究のUスペクトルは裾野が格段にきれいであり、ウランの水素化物イオン(238UH+)が著しく抑制されている。このことは、本手法により他イオンに起因する干渉を排除可能であることを示している。なお、比較を容易にするためにAgilent8800で得られたU16O+スペクトルはU+のスペクトルに変換してある。また、現在市販されているウランを含む試薬の多くは、原子炉で再処理されたウランが一部含まれており、天然とは違う同位体組成を示す場合がある。
図6 236U/238U比(10-9から10-7)の推奨値(横軸)と実測値(縦軸)の比較。236U/238U比がすでに分かっているウランを含む試薬について、実際にAgilent8800を用いてウラン同位体比を測定し相互の値を比較した。試薬の236U/238U比の推奨値(横軸)と得られた実測値(縦軸)が1:1の関係(同じ値を通る傾き1の直線上に点がプロットされること)であり、相互の値はよく一致していることを示している。この図から、236U/238U 比にして10-9、つまり、238Uの量に対して10億分の1の236Uまで測定できると言える。